あちこち旅日記

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中世・近世ともに歴史の舞台となった下関:長州の旅・下関北九州編⑩

 下関では唐戸市場でランチの後は、山陽道を東に進み、阿弥陀町に進みました。この地には895年(貞観元年)創建の阿弥陀寺がありましたが、明治時代の神仏分離により阿弥陀寺は廃止され、神社となり、天皇社と改称しました。さらに1875年(明治8年)に赤間宮と改称。官幣中社に列格されました。その後、1940年(昭和15年)に官幣大社(近代社格制度で最高位の社格)に昇格し、赤間神宮に改称しています。

 第二次大戦中に社殿は焼失しており、現在の社殿は1965年(昭和40年)に再建されたものです。

 赤間神宮は壇ノ浦の戦いにおいて幼くして入水した安徳天皇を祀っています。



 水天門や社殿は竜宮造りになっています。


 壇ノ浦の戦いで、三種の神器の一つである八咫(やた)鏡が安徳天皇とともに海に沈んだとされていましがが、平家の落人が持ち去り、岡山県に隠しもっていました。岡山県のアマチュア考古学者がそれを発掘し、その後赤間神宮に奉納しました。

 

 境内社の大連神社。関東州の大連市にあった大連神社の神体を日本に持ち帰り再建したものです。日本の敗戦後、満州・関東州にソ連が侵攻し、日本人の住居や商店などが襲われ、大連神社にもソ連兵が上がり込みましたが、神職が雅楽や舞楽を披露したところソ連兵の間で評判となり、大連神社は全く被害を受けなかったと伝えられています。


 同じく境内社の日本西門鎮守八幡宮。阿弥陀仏寺とともに創建されたと伝わっています


 隣接地には日清戦争後の講和条約交渉・調印が行われた地である春帆楼があります。


 本陣伊藤邸跡。坂本龍馬が邸内の一室を「自然堂」と称し、妻おりょうを呼び寄せて逗留していたことで知られています。



 清国の代表は李鴻章でしたが、命を狙われていたとの情報から、危険回避のために宿舎と春帆楼との往復にこの先にある小路を使っていました。この道は、李鴻章道と呼ばれています。

 日清講和記念館:下関条約の会談で使用された部屋が再現され、調度品、椅子が展示されています。


 さらに東に山陽道を上ると、関門国道トンネルの人道入口があります。


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