あちこち旅日記

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高輪ゲートウエイのネーミングの起源となった高輪大木戸跡

百代の過客

 前回、高輪ゲートウエイ駅とゲートウエイシティの報告をしましたが、そのネーミングの起源となったのが、江戸時代の大木戸跡です。当時は、東海道にあって江戸への入口とされてきました。


 かつて、江戸市中には町ごとに木戸が設置され、夜間の出入りが規制されていました。なかでも江戸から郊外に出る主要道には大木戸と呼ばれる関所のような門があり、夜間は閉門されていました。東海道ではここ高輪、甲州街道では四谷に設置されており、跡地が残っていますが、中山道、日光街道には設置されなかったのか、確認されていません。


 高輪大木戸は1616年(元和2年)に現在より700メートルほど北側に設置され、芝口門と呼ばれていました、その後、1710年(宝永7年)に現在の地に移転し、名称も変更されました。当時は旅人を見送りに大勢の人が集まり、にぎわいを見せていたそうです。


 江戸後期には門が撤去されましたが、西側にあった石垣が現在でも残っています。1868年(明治元年)に新政府により高輪大木戸の西側の石垣が撤去されました。その後、1876年(明治9年)に四谷大木戸の石垣が撤去されたことから、その後は高輪大木戸の石垣に史跡としての価値が注目され、新政府内でも撤去すべきか意見が割れ、結局は撤去されませんでした。1928年(昭和3年)に高輪大木戸は国の史跡に指定されています。


 場所は、都営地下鉄・京浜急行泉岳寺駅A4出口からすぐの場所にあります。


 日本橋側から見た石垣。


 品川側から見た石垣。


 ちなみに、泉岳寺駅の泉岳寺川の出口正面には、徳川家康の関東入国に際して、随伴していた公卿が伏見稲荷の分霊を勧請したことを起源とする高輪稲荷社があります。この付近、高輪大木戸と品川宿との間に位置する地域は「車町」と呼ばれていますが、1634年(寛永11年)の増上寺安国殿の建立などで、牛車が大量に必要になり、幕府が京都四条車町から牛持人足を呼び寄せたのが起源とされます。その後、人足たちの定住と牛車を使っての荷物運搬の独占権を与えたため、車町(牛町)と呼ばれるようになったとのことです。


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