川越街道の宿場町②上板橋:昭和初期の説教強盗で有名になった宿場町
今回は、川越街道2番目の宿場・上板橋宿です。場所は、現在の東武東上線中板橋駅の南側に当たります。
板橋宿から旧川越街道を進むと、大山駅を経由して、国道254号線(新川越街道)に出ます。ここは、「ハッピーロード大山」と呼ばれる都内でも最大級の商店街の一つになっています。大山についてはまた改めて報告したいと思います。
旧道が国道254号線と合流するのはごく短い距離で、再び旧道は新道と別れて進みます。ここから石神井川にかかる下頭橋までは別名「下頭橋通り」とも呼ばれ、上板橋宿があった辺りになります。
上板橋宿は宿場の規模も小さく、本陣などはなく、名主河原与右衛門宅がこれらの機能を兼ねていました。豊敬稲荷神社境内に「上板橋宿の概要図」が掲示されていますが、それによると『町並み6町40間(約740m)、家数90戸』にすぎなかったようです。ちなみに、この豊敬稲荷神社ですが、民家の片隅に追いやられていた神社を福本芳太郎という奇特な方が現在地に土地を購入して遷座したとのことです。
神社先には米穀商を営んでいた古民家「旧三春屋」があります。ここは文化財というよりも、昭和初期に起きた説教強盗事件で有名です。当時、都内一円に説教強盗なる泥棒が出没。三春屋にも入り「あなたの家は強盗に入られ易い」「犬を飼いなさい」などと説教をしたそうです。しかし、三春屋で残した指紋から足が付き御用になりました。
旧三春屋と豊敬稲荷神社との間にあるのが、上板橋宿副戸長碑です。民家の表札を見ると、当時の副戸長のご子孫が住まわれているようです。
さらに進むと、石神井川(しゃくじいがわ)にかかる下頭橋(げとうばし)という橋に出ます。現在の橋はコンクリート製で1979年に造られたものですが、もともとは、寛政年間(1789~1801)につくられた、江戸郊外では最も早く造られた石橋だったそうです。
橋の名前のいわれとしては、江戸時代に川越街道を参勤交代の行き帰りで利用した川越藩主が立ち寄る際に、この橋で、家臣たちが藩主を迎え、帰途の折には見送りするためにずっと頭を下げていたということから、という説が有力のようですが、ほかにも諸説あるようです。
また、橋のそばに「六蔵祠」という小さな祠が建っています。六蔵祠」の境内には「他力善根供養塔」という石碑が1基あります。碑文から類推すると、上板橋村全体の名主である河原与右衛門と、村内の小竹(こたけ)地区の有力者・篠喜平次が世話役となって、寛政10年(1798年)に橋を完成させたと推察されています。
六蔵祠
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