川越街道の宿場町①板橋宿後編:飯盛女が盛り上げていた仲宿
前回は板橋宿で川越街道が中山道から分岐する平尾追分を紹介しました。板橋宿といっても広く分散しており、東から、平尾宿、仲宿、上宿の3つの宿場がありました。このうち、宿場の中心地は仲宿だった模様です。
現在でも板橋宿における旧川越街道の史跡が少なく、表示も十分ではないのに対し、中山道では史跡がよく保存されています。
本陣は仲宿に1軒、脇本陣は3宿とも1軒ありました。平尾宿の脇本陣は、近藤勇が幽閉されていた豊田家でした。
江戸時代に書かれた『中山道宿村大概帳』では、54軒の旅籠があり家数573戸、2450人との記述があります。旅籠のなかには俗にいう「飯盛女(当局黙認の私娼)」をおく宿もあり、なまめかしい声で、宿場を盛り上げていたようです。
江戸時代の天保年間に描かれた渓斎英泉の浮世絵にも板橋宿が描かれています。
仲宿は、現在の板橋区役所付近に相当し、150店ほどの商店街が今でも賑わいを見せています。仲宿には問屋場、本陣などの施設と高級旅館、料理屋などが軒を並べていたようです。
平尾宿からの道(地蔵通り)をまっすぐ進み、ここから仲宿に入ります。
古い商家の建物が残っている板五米店。この建物は1914年に建てられたもので、店ではおにぎりも販売しています。
天台宗遍照寺。境内には馬のつなぎ場があったため、馬にちなんだ絵馬が多いとのことですが、工事中のため立ち入りできませんでした。
本陣跡地。現在は民家になってしまっており、当時の面影はありません。
老舗の和菓子屋さん。新撰組の旗を掲げ、雰囲気のよさそうな外観ですが、残念ながら創業は昭和11年(1936年)で、しかも建て替え済みとのことです。
江戸初期の創建とされる真言宗・文殊院。
こちらはさすがに現代の洋菓子店ですが、行列が出来ていました。気になります。
仲宿脇本陣だった名主の飯田本家もマンションになっていました。
仲宿の西端は、石神井川にかかる「板橋」です。この先が上宿になります。
下は小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、荒川に注ぐ石神井川になります。水質も悪くなさそうでした。
橋を渡ると上宿です。
縁切り榎と呼ばれる榎。江戸時代に旗本近藤登之助の抱え屋敷にあったものです。男女の悪縁だけでなく、断酒などの祈願が行われてきました。近代になると、「悪縁を絶ち良縁を結ぶもの」と転じ、信仰を集めましたが、江戸末期に将軍家に降嫁した和宮はここを避けて迂回したとの記録が残っています。
上宿にも商人宿や馬喰宿が密集していたとされています。一番賑やかだったのは、環状七号線(環七)と交わるあたりといわれていますが、今日では付近は住宅地になっており、賑わいは感じられません。
この先、中山道が延々と続いていきます。次回(4月28日を予定)は、川越街道に戻り第2の宿場・上板橋宿を訪ねます。
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