あちこち旅日記

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本駒込に移転した吉祥寺には江戸時代の歴史が詰まっていた

 前回、吉祥寺の街の歴史について報告させていただきましたが、地名の起源となった諏訪山吉祥寺は、明暦の大火後に東京都文京区本駒込三丁目に移転していました。今回は、その吉祥寺に訪問してきました。


 場所は東京メトロ南北線本駒込駅を出て、本郷通りを北に2~3分程度歩いたところにあります。


 吉祥寺は室町時代1458年(長禄2年)に太田道灌により江戸城内に創建されました。のちに徳川家康の関東入府にともなって江戸城内より水道橋の本郷元町へ移転し、その後明暦の大火によって現在の駒込の地に移転してきました。


 諏訪山吉祥寺とその門前町が焼失した際に、幕府が門前町と周辺町民に移転を命じて、1661年(寛文元年)に武蔵野原野に「吉祥寺村」を開村した話は前回触れています。


 山門の前に、吉祥寺門前町の歴史を説明する掲示版があります。

 江戸期には境内に学寮「旃檀林」が作られ、常時1,000人余の学僧がいたそうです。「旃檀林」は幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となり、後の駒澤大学となりました。
 境内は、広々としています。いくつかの譜代大名・旗本の江戸の菩提寺でした。その中の一人に戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、蝦夷共和国の総裁となり、後にロシアとの千島樺太交換条約の締結に尽力した榎本武揚がいます。


 また、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である二宮尊徳の墓碑とおなじみの像があります。


 また、井原西鶴の『好色五人女』にも登場する「八百屋お七」と恋人の「吉三郎」の比翼塚もあります。1683年(天和2年)に駒込の大円寺から出火した天和の大火で本郷に住む八百屋市左衛門の一家は焼け出され、吉祥寺に避難し、に避難します。そこでお七は寺小姓の吉三郎と恋に落ちたとされています。

 「吉祥寺大仏」。1722年(享保7年)に鋳造された青銅製の釈迦如来坐像で像高2.93m、総高4.17m。寄進者は不明です。

 何かと火事に縁のある、江戸時代の歴史を象徴するお寺でした。


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