東海道宿場巡り⑩:開国の歴史を残す神奈川宿
今回の東海道宿場巡りは、江戸から数えて3番目の宿場町・神奈川宿です。
神奈川宿の西端(上方見附)は現在の横浜駅西口に近い上台橋付近くにあったとみられています。
ここを東に進むと、神奈川台の関門跡があります。横浜開港後外国人が相次いで殺傷されたことから、幕府はイギリス総領事を始め、各国の領事から非難されることになりました。そこで幕府は横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化し、治安に努めました。この時に神奈川宿の東西にも関門が造られ、その西側の関門跡にあたります。
その東には1863年(文久3年)創業の料亭「田中家」があります。初代の主人である晝間弥兵衛(ひるまやへえ)が旅籠「さくらや」を買収し、これを業態変更する形で創業したました。関東大震災および太平洋戦争中の空襲で焼失し、現在の建屋は1952年(昭和27年)に再建されています。高杉晋作・西郷隆盛など、幕末の志士達による倒幕計画立案の舞台となったとも伝えられていますが、1874年(明治7年)からしばらくの間、坂本龍馬の妻であったおりょうが仲居として勤務していました。おりょうは英語が話せたため、外国人客の接客に活躍したと伝えられています。
さらに東へ進むと大綱金比羅神社があります。元々は山上の「飯綱大権現」と麓の「金毘羅大権現」が別々に鎮座していまししたが、明治時代の神仏分離によってそれぞれ「大綱神社」「金刀比羅神社」となり、後者は1882年(明治15年)に村社に列せられました。1911年(明治44年)、前年の裏山崩壊によって半壊した金刀比羅神社の社殿再建を機に、大綱神社を合祀して「大綱金刀比羅神社」となりました。前者には源頼朝にまつわる1180年(治承4年)の創建伝説が、後者には1642年(寛永19年)の棟札があります。
そのまま進むと青木橋の近くに曹洞宗本覚寺があります。1226年(嘉禄2年)に宗祖栄西により創建されたと伝わります。幕末の1859年(安政6年)に横浜が開すると、横浜港が一望できるこの地に、初めての在横浜アメリカ領事館が置かれました。1862年(文久2年)にイギリス人を殺傷した生麦事件が起きた際に、負傷者のウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルが本覺寺のアメリカ領事館へ逃げ込み治療を受けたされています。
開国当時山門はペンキで白く塗装され、この山門は後も震災・戦災を免れて現存しています。
東西方向に走る旧東海道と南北方向に走る国道1号が交差する青木橋。
ここを渡ったところに京浜急行・神奈川駅があります。
広重の「五十三次神奈川宿」はここを描いたようです。当時はここが海岸線だった模様です。坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字が読めますが、料亭田中家の前身にあたります。田中家は、1863年(文久3年)に初代がさくらやを買収し、開業したものです。
青木橋をわたると、旧東海道は宮前商店街を経て現在の国道16号線(第一京浜)を進みます。
1191年(建久2年)に源頼朝が現在の千葉県館山市にある安房神社を勧請(かんじょう)して建立した洲崎大神。当初は鎌倉幕府直轄の神社でした。近代社格制度では郷社とされていました。
神奈川宿の中心だった滝の橋。滝の川にかかるこの橋を中心に、江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣がおかれていました。
天慶年間(938年 - 947年) に伏見稲荷大社の御分霊を勧請したことが創祀と伝えられる笠のぎ稲荷神社。旧社格は村社。1274年(文永11年)の元寇の際には、鎌倉幕府の執権北条時宗が菊一の銘刀と神鈴を奉納して、国家の安泰を祈願したと伝えられています。
漁師が海中から拾い上げた虚空蔵菩薩を祀ったと伝わる能満寺。
かつて 能満寺境内にあった神明宮。明治初期の神仏分離により分かれました。
長延寺跡とされる神奈川通東公園。長延寺は江戸見附であり、旧オランダ領事館も兼ねる寺でした。長延寺は1966年(昭和41年)に横浜市緑区三保町に移転しています。
次回は川崎宿です。5月26日の投稿を予定しています。
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