東海道宿場巡り⑪:往時の賑わいを感じる川崎宿
今回の東海道宿場巡りは、江戸から数えて2番目の宿場町・川崎宿です。
現在では、政令指定都市になっている川崎市ですが、江戸時代にも宿場として栄え、ピーク時には72軒の旅籠があり、神奈川県下9宿の内3番目の旅籠数だったそうです(小田原宿の95軒、戸塚宿の75軒に次ぐ規模)。そのうち飯盛女を置いていた「飯売り旅籠」が新宿に集中して33軒あり、その後の「風俗街」の形成につながっていたと考えられます。
東海道の成立時点では正式な宿場ではなく、開設されたもの1623年(元和9年)になってからでした。品川宿 - 神奈川宿間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったためといわれています。
今回のスタートはJR南武線(支線)・京浜急行線の八丁畷駅です。
駅前(東口)を旧東海道が通っており、東に進むと松尾芭蕉の句碑があります
東に進むと馬嶋病院があります。馬嶋病院の1階入口横に、9坪ほどの広さの芭蕉ポケットパークがありますが、ここは芭蕉が7人の弟子と別れを惜しんで句を詠み交わしたところと言われています。
さらに、東に進むと焼肉店の「つるや」さんがあります。ここは孤独のグルメSeason1に登場したお店です。
ぜひ、食べてみたかったのですが、ランチはやっていないようです(18時開店)。
通りには「東海道」の標識が出ています。
小川町に入ったところの電柱に「京入口(京見附)」の表示があります。
ここから東は標識が「東海道川崎宿」に変わります。
この付近に浄土宗教安寺があります。1553年(天文22年)に開山されました。
1829年(文政12年)鋳造の梵鐘。戦中の金属類回収令により供出させられましたが、空襲警報のサイレンの代用品にしようと川崎市役所に保管されたため、鋳潰を逃れました。
当時あった地名が残っている「小土呂橋」。現在は川の流れは暗渠化しており、橋は残っていません。
砂子(いさご)も当時から残る地名です。ここは宿場の中心に当たり、旧東海道も「いさご通り」と呼ばれています。
「赤城の子守歌」や阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」の作詞で知られる佐藤惣之助の生家跡。
現在は神奈川県内に本店を置く信用金庫としては最大規模を有する川崎信用金庫の本店が立っています。
佐藤惣之助の生家は、代々この地で本陣を務めていました。川崎信用金庫の向かいには「佐藤本陣跡」の碑があります。
中の本陣跡
問屋場跡
鎌倉時代の創建とされる曹洞宗宗三寺。境内には遊女の供養塔があります。
かわさき宿交流館、資料や地図をいだだいたり、川崎宿についてのお話をうかがうことができます。
田中本陣跡。下の本陣とも呼ばれています。本陣家の主人である田中休愚は、本陣、名主、問屋の三役を兼務し、六郷川の渡し船の権利を江戸側より川崎宿側に譲り受けて、宿場の財政を立て直しました。また、「民間省要」を著し、二ヶ領用水や酒匂川の治水に活躍し、幕府の勘定支配格(大名格)に登用されましたた。
川崎稲荷社。1716年(享保元年)に紀州藩主吉宗が八代将軍になるために江戸へ向う途中、この境内で休息したと言われています。1951年(昭和26年頃)に再建されたそうです。基礎の土留にニケ領用水に架かっていた石橋の部材を使用し、また社殿の下に、いわれのあるケヤキの大木の根株が眠っています。
多摩川に着きました。東の端である江戸方見附があった場所を見つけることができませんでしたが、この近くに跡地が残っているそうです。
六郷渡船のモニュメント。江戸時代には常時10数隻の舟で旅人や荷馬を渡しました。1868年(明治元年)の明治天皇の渡御の際には、23隻の舟を横に並べ、舟橋を作って渡ったそうです。
六郷渡船は広重の「五十三次川崎宿」にも描かれています。
病害に強く、甘味があり、収穫も多いことで有名な「長十郎梨」発祥の地であることを示す碑。当麻辰次郎が多摩川の河口近くで発見したと伝えられており、大正初期には全国の生産量の8割を占めたそうです。現在、当地では長十郎梨は栽培されていません。
次回は終点品川宿です、6月2日の投稿を予定しています。
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