東海道宿場巡り⑬:品川宿(北品川編)
前回の宿場巡りは南品川宿でしたが、今回は品川橋を渡った北品川宿編です。
橋をわたるとすぐ左に見えるのが荏原神社です。709年(和銅2年)に、大和国丹生川上神社より高龗神(水神)の勧請を受けて南品川に創建したのに始まります。その後、目黒川最下流が新たな河口まで直線化されたことで(以前は八つ山橋近くに河口がありました)、目黒川の北岸(北品川)に位置することとなり現在に至ります。旧社格は郷社ですが、東京十社の一つでもあります。
「品川宿交流館本宿お休みどころ」で情報収集しながら、給水タイム。
袋井宿の兄弟松
枚方宿の街道松
聖蹟公園(本陣跡)
ここは東海道品川宿の本陣跡でもあります。1872年(明治5年)に宿駅制度が廃止された後は警視庁品川病院となりましたが、1938年(昭和13年)に公園として整備され今に至ります。1868年(明治元年)の明治天皇東幸の際に行在所となったため「聖蹟公園」という名がついています。
井戸跡だけが当時の面影を伝えています。
1299年(正安元年)に開山されたといわれている養願寺。
本尊の虚空蔵菩薩が有名で「品川虚空蔵」と呼ばれています。
品川本宿から養願寺までの横町は虚空蔵横町と呼ばれています。
1390年(明徳元年)に開山された浄土宗法禅寺。品川区で一番古い小学校である品川小学校発祥の地で、門前に「品川小学校発祥之地」という石碑が建っています。
境内にある杉森稲荷
真言宗一心寺。1855年(安政2年)、大老井伊直弼の開基とされています。山村一心が成田山不動明王を模刻、信奉者が増加し、1861年(文久元年)に洲崎弁天(利田神社)境内に堂宇を建立した後、明治2年神仏分離により北品川宿へ移設。1885年(明治18年)当地に堂宇を建立しました。
1865年(慶応元年)創業の丸屋履物店。江戸の香りを残す貴重な町家造りの建物は大正初期の建築です。
品川宿の碑
品川宿の松。こちらは地元の方の寄付によるものです。
1626年(寛永3年)に創建された利田神社。洲崎(目黒川河口の品川湊の砂州)に沢庵宗彭が弁才天を勧請したのが起源。当時は「洲崎弁天」と呼ばれ、修験道当山派の修験者が堂宇を管理していました。境内には、「鯨塚」と呼ばれる墓がありますが、これは1798年(寛政10年)に品川沖に迷い込み、仕留められた鯨を埋葬した墓です。当時は江戸市中が大騒ぎとなり、鯨を一目見んと野次馬が殺到したそうです。
かつて品川浦は「御菜肴八ヶ浦」と呼ばれるとれた魚を江戸城へ納める漁村の一つでした。に決められていました。豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でしたが、東京港建設のため1962年(昭和37年)に漁場権利を東京都に譲り渡し、翌年品川周辺の海苔養殖は幕を閉じました。現在では、つり船や屋形船が舳先(へさき)を並べています。
この付近が広重の「五十三次品川宿」が描かれた地点とみられます。
三代将軍徳川家光と沢庵和尚が禅問答をしたとされる「問答河岸」跡。 三代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、沢庵和尚がこの辺りまで出迎えて禅問答をしたという話が『徳川実記』に記載されています。家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたと伝わります。
江戸方見附跡は残っていませんが、この京浜急行の踏切が品川宿の北端(江戸から見た品川宿の入口)。左に行くと京急北品川駅があります。
東海道とJR東海道線を立体交差させるために、明治5年(1872年)に架けられた八ツ山橋。映画「ゴジラ」では、ゴジラが上陸した地点という設定になっています。
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