本多忠勝の居城・大多喜城:東京から日帰りで行ける千葉県夷隅の旅⑤
話題のローカル線・いすみ鉄道で向かった先は、城下町・大多喜でした。
列車は、大原から30分ほどでデンタルサポート大多喜駅に到着しました。
駅はいろいろな資料が展示されています。
大多喜は大多喜藩10万石の城下町として知られています。大多喜城は1521年(大永元年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされますが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐後、関東に転封された徳川家康が徳川四天王の一人・本多忠勝に所領としてこの地を与え、発展してきました。
駅ホームには本多忠勝と忍者の発砲スチロール製の像が建てられています。
駅前には、観光本陣(観光案内所)があり、情報収集ができます。特産品やお土産も売られています。
大多喜はまた、国内で初めて液状の天然ガスが発見された場所でもあります。観光本陣の隣にある天然ガス記念館では、大多喜町が誇る天然ガスの開発や供給の歴史を紹介しています。
駅の東側には大多喜城があります。駅前の通り(四つ門通り)を南に行き大手門(歓迎門)が見えますが、これは観光用に作られたもののようで、当時の大多喜城の大手門は、現在のいすみ鉄道の裏側にあったそうです。
線路をわたり、駅の裏側を進むと大多喜城があります。城の敷地の一部は千葉県立大多喜高校の敷地になっています。同校は、コント赤信号のリーダー・渡辺正行さんの母校として有名です。
ここを入ると、すぐに薬医門があります。大多喜城の建造物は、廃藩とともにすべて壊されてしまいましたが、その中で唯一残ったのがこの薬医門です。大多喜高校の玄関脇に移築復元されています。
大多喜城の二の丸・三の丸には大小25の井戸があったと言われており、その中でも二の丸の井戸は周囲が17メートルの大きなものです。本多忠勝が築城したときに作られたもので、江戸時代には八角の井桁を組み、そこから8本の柱が立ち、杉皮東屋風の建物だったそうです。
この後ろの丘の上に天守閣があります。
ここを登っていきます。
大多喜城本丸跡に1975年(昭和50年)に建てられた天守閣(3層4階の鉄筋コンクリート造)は歴史博物館となっていますが、現在は工事中で休館しています。
代わりに、対面にある研修館が無料開放されています。
本多忠勝画
大河ドラマの誘致運動をやっていました。どこも考えることは同じようです。
大多喜水道は、幕末の最後の大多喜城主・松平正質が、水不足に困っていた城下町の為に築いた水道です。1869年(明治2年)に工事を開始して、翌年に完成しました。城下の二百戸の水源が確保され、三千ヘクタールの水田も潤いました。この日は見学に来ていた女子中学生たちがキャッキャ言いいながらお化け屋敷のノリで中に入っていました。
続きは6月22日の投稿になります。
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