青梅街道宿場巡り①:江戸時代に象小屋があった中野宿
青梅街道の旅の初回報告は、中野宿になります。中野は江戸時代幕府直轄領(天領)であり、現在のJR中野駅近くにある中野区役所には五代将軍綱吉が建てたとされる「犬屋敷」跡の碑があります。しかし、ここは青梅街道から遠く離れており、青梅街道の地下には現在東京メトロ丸の内線が走っています。
中野駅周辺は以前投稿しているのでこちらをご参照ください。
サブカルチャーの聖地?それとも東京の九龍城塞?:老朽化進む中野ブロードウェイ - あちこち旅日記
神田川にかかる淀橋をわたると中野になります。
神田川の水質は昔と比べてかなり改善しており、川底まで見えます。清流と呼んでもさしつかえない水準になっています。
淀橋をすぎたあたりには、中本一稲荷神社の鳥居が目に入ってきます。参道の長い階段が特徴的です。社名の「中本一」は、かつての町名「中野本町通り一丁目」に由来しているそうです。
青梅街道も登り坂になります。
坂を上ったところが文字通り「中野坂上」になります。東京メトロ丸の内線と都営地下鉄大江戸線が交差します。
中野坂上にある古刹・宝仙寺。著名人の葬儀・告別式も多く執り行われることでも有名な寺院ですが、源義家によって創建され、平安時代後期の後三年の役(1083年~1087年)の際に護持していた不動明王像を安置するために建立されたといわれています。
山門の仁王像。
江戸六塔の一つである三重塔 。1636年(寛永13年)に建立されたものの、1945年(昭和20年)の空襲により焼失。1992年(平成4年)に飛鳥様式で再建されたものです。
1906年(明治39年)に中野町役場が境内に建設され、1932年(昭和7年)の中野区発足により1936年(昭和11年)初代・中野区役所として継続利用されました。その石碑があります。
本堂
御影堂
2016年(平成28年)に再建された鐘楼
臼塚。供養のため噴水として積み上げた石臼、頂上のものは昔し甘酒をすったもの。
再び青梅街道に戻り西に進むとアーケードのある古い商店街になります。
中野駅方面から伸びる鍋屋横丁(通称「なべよこ」)と交差します。鍋屋横丁は江戸時代前期に現在の杉並区堀ノ内にある妙法寺に向かう参拝道(参道)として栄えました。江戸から青梅街道を経由して妙法寺に向かう際、この鍋屋横丁交差点を左折しました。その目印となったのが「鍋屋」という名の茶店であったことから、「鍋屋の横丁」とこの名がついた。
鍋屋横丁を行った先にある朝日が丘公園には江戸時代「象小屋」がありました。これは8代将軍・徳川吉宗が取り寄せた象でしたが、飼育に年200両(現在の価値に直すと約1500万円相当)かかり、さらに番人を殺すなどの事故もあり、1732年(享保17年)には幕府によって中野に象舎が建てられ、当時から世話をしていた中野村の源助に払い下げられてしまいました。
源助は象を鎖でつないで見世物興行をおこなうだけではなく、象の糞を疱瘡の薬として売り出し、当初は結構な稼ぎがありましたが、やがて人気が衰えると世話に掛かる費用が逼迫。与えられる食料も減らされて、やがて象は衰弱して22才で死んでしまったそうです。
青梅街道に戻ると東京メトロ新中野駅があります。この先は杉並区になります。
「青梅街道宿場巡り」の次回投稿は7月28日を予定しています。
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