青梅街道宿場巡り②:今では洗練されたベッドタウン田無宿
青梅街道宿場巡りの2回目は、田無宿です。現在の行政区分は東京都西東京市(2001年に田無市と保谷市が合併して誕生)になります。
田無の名前の起源には様々な説がありますが、文字どおりこの地域一帯が水利が悪く「田のない」ところであり、「田無」の名称が残ったと考えられているようです。ほかに、
・生活の源泉である湧水の流れが浅い階段状の「棚瀬」になっていたからという説
・古村一帯に水田を開くところから、いわゆる「田を成す」ことが、「たなし」になったとする説
・この村は年貢の収奪がとくに激しく、種籾すらも取られてしまったため、「種なし」の村と呼ばれ、それが「田無」に変化したという説
があるようです。
現在の駅前は大規模な商業ビルが立ち並び、「田んぼなんてありえない都会の洗練された街」という雰囲気になってしまっています。都心部に近い西武線の駅周辺が再開発ができず、寂れているのと対照的です。
駅ビルにもお店がたくさん入っていて賑やかです。
FM局のオープンスタジオもあります。
この田無宿も他の宿場町と同様に、当時の宿場だったことを示すものがあまり残されていませんが、宿場の東端は、田無神社があった場所だった模様です。
田無神社の創建は、鎌倉時代後期の正応年間(1288年 – 1293年)と伝えられています、当時は市内北部の谷戸地区に鎮座し、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)と呼ばれていました。江戸時代に青梅街道が開通した際に、谷戸の住人が南の青梅街道沿いに移住し、宿場町・田無を造営されましたが、尉殿大権現も何度かのプロセスを経て田無に遷されました。1872年(明治5年)、尉殿大権現は熊野神社、八幡神社を合祀、田無神社と社名を改め、現在に至ります。旧社格は村社でした。
手水舎の正面に白龍神が祀られていることから「白龍の水」と呼ばれています。
拝殿
本殿
境内社の津島神社と金色の鳥居
青龍(左)と楠正成像(右)。楠正成の子孫が保谷に移り住んでいたこの縁によるようです。
故大鵬親方が93年に五穀豊穣を祈念して開いた土俵。5月にはんぱく相撲が開催され、賑わいます。鳩が仕切り線に控えているように見えます。
国の有形登録文化財に指定されている参集殿。
道を隔てて田無神社の別当寺であった真言宗(智山派)總持寺があります。創建は 元和年間(1615-1624年)とされています。
山門を裏からみました。
本堂
妙見堂
このケヤキは田無地域における最大級のもので、1842年(天保13年)から1850年(嘉永3年)にかけて行われた本堂の再建時に記念して植えた樹木の内の1本であると伝えられています。
青梅街道は、駅近くの賑やかな場所を通り、
関東バスの橋場操車場あたりまでは宿場だったとみられます。橋場近くには、「上宿」というバス停があり、わずかに宿場の名残が見られます。
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