あちこち旅日記

乗り物好きの旅行日記。コスパのよい贅沢な旅がモットー。飛行機、鉄道の搭乗乗車体験記やグルメ情報をご紹介します。

ケネディ元米国大統領が尊敬していた上杉鷹山:JR東日本週末パスを使い東北旅行④

 今回、米沢の上杉神社を訪れて一番印象に残ったことは、上杉神社の祭神である上杉謙信、初代米沢藩主であった上杉景勝と並んで、上杉治憲(鷹山)への敬意を強く感じられたことです。


 上杉景勝は豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石を領しましたが、関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍に付き敗北してしまいます。このため、戦後に徳川家康から上杉家の存続は許されたものの米沢藩30万石へ減封となり、さらに家督相続を巡る不手際から後に15万石にまで石高が減ってしまいました。


 上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万石に減りながらも、会津120万石時代の家臣団6千人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていました。


 こうした中で、上杉家に婿養子に入り、1767年(明和4年)に第9代藩主に就いた治憲(鷹山)は破綻寸前にあった藩財政の再建を目指して大倹約を主旨とした大倹令を発布。また自らの生活費を大幅に切り詰め、奥女中の大幅なリストラを行うなど藩財政を立て直します。また、等級の区別無く有能な人材を大量に召しだして登用したり、農村復興計画や上書箱の設置、領民保護など様々な改革を行う一方、藩財政の悪化から事実上廃絶していた藩校興譲館を再興させています。


 鷹山の治世において起きた天明の大飢饉においても餓死者が藩内から出なかったという言い伝えも残っています(実際には数千人の餓死者は出ていたようです)。


 上杉鷹山の言葉としては「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」の和歌とともに「伝国の辞」が有名です。後者は、


・国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
・民(領民)は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
・国(藩)・民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。


の3か条からなる、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した藩主としての心得です。


 この「伝国の辞」に強く影響されたとされているのが、1961年に第35代米国大統領になった故ジョン・F・ケネディの就任時の演説「国家があなたに何をしてくれるか問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい」という箇所です。


 実際に大統領就任時、日本の新聞記者が「日本で最も尊敬する政治家はだれか」と質問したところ、故ケネディ元大統領は「上杉鷹山」と答えています。前大統領アイゼンハワー時代から始まった不況を打開するために、極貧の米沢藩を立て直した鷹山を学んでいたようです。故ケネディ大統領は内村鑑三の『代表的日本人』を読んでそこに書かれている上杉鷹山を尊敬するようになったといわれています。


 また、2013年11月、駐日米国大使に就任した長女キャロライン・ケネディ氏は、「父ジョン・F・ケネディ元大統領が、江戸時代の米沢藩の名君とされる上杉鷹山を尊敬し、就任演説に代表される考え方に影響を与えた」と述べています。
 

 キャロライン元大使は2015年9月に米沢を訪問されており、その時のスピーチが松岬公園に残っています。

 上杉神社の創建時には上杉鷹山が合祀されていましが、1902年(明治35年)に上杉神社が別格官幣社に列せられた際に、新たに設けた摂社「松岬神社(旧社格は県社)」に遷されています。

 松が岬公園には、「指導者の心得」とする米沢藩最後の藩主・上杉茂憲(もちのり)の碑も建っています。茂憲は1881年(明治14年)には沖縄県令となり、5人の第1回県費留学生を東京に留学させています。各学校への私費での奨学金や文具の寄付も数多く行うなど人材育成に努めましたが、「沖縄県民を扇動している」と中央政府からの反感を買い、在職2年で県令を解任されています。

 密度の濃い上杉神社訪問の後は次の目的地・山形市に向かいます。


参考になったら、「プロフィール」のバナーをクリックお願いします。過去の記事リストがあります。シリーズ通してご覧いただければ嬉しいです。

×

非ログインユーザーとして返信する