日本橋人形町はかつて元吉原と呼ばれた遊郭だった
大河ドラマ「べらぼう」がスタートしたことで、吉原の遊郭が脚光を浴びていますが、江戸初期の1617年(元和3年 )から1657年(明暦3年)の40年間、吉原遊郭が日本橋人形町にあったこちとはあまり知られていません。
吉原が現在の台東区千束に移転したのは、明暦3年に起きた「明暦の大火後」でしたが、前年の1656年(明暦2年)に既に幕府は移転命令を出していたとされます。江戸の城下町が拡大した結果、大名の江戸屋敷が人形町の遊郭に隣接するようになっていたことが背景にありました。このため、人形町遊郭は「元吉原」、千束の遊郭は「新吉原」と呼ばれています。
人形町の遊郭は江戸幕府が駿府城下町(現在の静岡市葵区)にあった二丁目遊郭を一部移転したものと伝えられています。家康は多数の家臣団を率いて江戸に入った際に、江戸の都市機能の整備のために関東一円から人足を集め、京や大坂から多数の上方承認も移住してきました、さらに、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人たちが仕事を求めて江戸に集まったことから、人口が急増しました。また、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かった模様です(江戸中期において江戸の人口の3分の2が男性という記録があります)。遊郭が発達した背景にはこういった事情があったと考えられます。
人形町の「元吉原」は、現在の甘酒横丁以北にあったと考えられています。東京メトロ日比谷線の人形町の出口(茅場町寄り)を出ると、軍鶏料理で有名な漆喰づくりの料亭「玉ひで」の横に出ますが、そこが「甘酒横丁」の交差点になります。
甘酒横丁を進むと、たい焼きの名店「柳家」があります。いつも行列ができている有名店ですが、天気の良かった土曜日のこの日は異常な長さになっていました。
ほかのお店の前で一旦途切れていますが、さらにその先にも行列ができていました。
元吉原は、寛永元年(1624年)ころ、猿若座(のちの中村座)がやってきて、この地で江戸歌舞伎を始めた地でもあります。遊郭が移転した後も、歌舞伎や浄瑠璃などの芝居小屋が多く集まり、江戸のエンタメスポットでもありました。明治以降も花街としてもにぎわました。遊郭の跡らしきものはありませんが、「大門通り」という通りの名称に、その痕跡が残っています。
かつて遊郭だった場所には、老舗の料亭がいくつか残っています。すき焼きの「今半」はその一つです。
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