あちこち旅日記

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二宮尊徳の生家を訪ねる(神奈川県小田原市)

 前回、二宮尊徳を祀る報徳二宮神社について報告しましたが、今回は小田原市の郊外にある生家の紹介です。


 最寄り駅は小田急線の栢山駅になります。徒歩でも行けますが(約15分)バスの便もあります(コロナワールド方面行きバスで尊徳記念館前下車)。



 尊徳(幼名金次郎)は1787年(天明7年)に百姓二宮利右衛門 の長男として小田原藩領の栢山村で生まれました。父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったものの、散財を重ねていました。そこに、金治郎が5歳の時の1791年(寛政3年)に南関東を襲った暴風で酒匂川の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまいました。父の田畑も砂礫と化し、家も流失してしまい、田畑は数年で復旧したものの、借財を抱えて家計は貧していました。


 1797年(寛政9年)に父が眼病を患うと、当時12歳だった金次郎は酒匂川堤防工事の夫役を父に代わって務めました、また、1800年(寛政12年)に父の病気が悪化し、没すると14歳の金次郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家4人の生計を立てたと言われています。


 1802年(享和2年)に貧困の中で母が亡くなると、まだ幼い2人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は伯父萬兵衛の家に身を寄せ、農業に励みました。身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「燈油の無駄使い」として嫌い、しばしば口汚く罵られた言われています。金次郎は堤防にアブラナを植え、それで菜種油を取って燈油とし、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得ています。


 金次郎は20歳の時に1806年(文化3年)に生家に戻り、家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図りました。生家の再興に成功すると、金治郎は地主・農園経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働き、小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えました。


 その頃、小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が金次郎に服部家の家政の建て直しを依頼すると、金次郎は五年計画の節約で負債の返済に成功します。300両の余剰金も発生しましたが、自らは一銭の報酬も受け取らなかったとされます。この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになり、藩士として登用されることになりました。


 この金次郎の生家は1960年に復元され、二宮尊徳記念館の一部になっています。


 尊徳記念館には二宮尊徳の生涯の紹介や、様々な史料が展示されています。


 周辺には二宮尊徳に関する遺跡も多くあります。

 伯父萬兵衛の家

 「二宮」という表札があったので、現在はご子孫の方の邸宅になっていると思われます。

 二宮家代々の菩提寺である善栄寺。曹洞宗の寺院で、1215年(建保3年)、巴御前(ともえごぜん)が木曽義仲(きそよしなか)と和田義盛の菩提を弔うために創建したといわれています。

 善栄寺は創建当初は律宗の寺でしたが、1338年(延元3年)、鎌倉円覚寺の東明恵日和尚(とうみょうえにちおしょう)が足柄の地に隠棲した時に再建されて臨済宗となり、1554年(天文23年)に北条氏康の夫人瑞渓院殿(ずいけいいんでん)が帰依して曹洞宗に改められました。このため、氏康夫人が中興開基とされており、氏康夫人の宝篋印塔があり、小田原市の指定文化財となっています。

 善栄には二宮家本家の墓があり、尊徳の戒名が刻まれています。

 「二宮家の墓」との墓標もある分家のお墓も多いので、間違えないようにしてださいね。

 濃い色の墓石から尊徳の戒名「誠明院功誉報徳中正居士」がうっすらと読めます。

 ところで、以前東京駒込の吉祥寺を紹介した際、二宮尊徳の墓があることを紹介しました。



 本来、二宮家の菩提寺は善栄寺ですが、尊徳の死後子・尊行は、没した地の今市・如来寺に仮内葬しました。善栄寺には二宮尊徳の歯と遺髪を納めたものの、遺骨そのものは曾孫(ひまご)の二宮徳の代になるまで納骨せずに手元にとどめたいました。その後、二宮徳は、吉祥寺を菩提寺と定めて、東洋拓殖会社から南洋方面視察の旅に出発する際に遺骨を吉祥寺に預けて出発しましたが、船内で病死してしまいました。このため、尊徳の遺骨は吉祥寺に埋葬されることになったそうです。


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