あちこち旅日記

乗り物好きの旅行日記。コスパのよい贅沢な旅がモットー。飛行機、鉄道の搭乗乗車体験記やグルメ情報をご紹介します。

ここからが日光街道らしくなる徳次郎宿:日光街道宿場巡り㉑

 今回紹介するのは、日光街道18番目の宿場・徳次郎(とくじら)宿です。現在の行政区画は栃木県宇都宮市徳次郎町になります。宇都宮を過ぎると鉄道路線と日光街道は大きく外れ、バスの便だけになりますが、本格的な杉並木を楽しめるのもここからになります。


 徳次郎は奈良時代に日光の久次良氏(久次郎氏)の領地となり、一族によって日光二荒山神社を遷したとされる智賀都神社が建立されました。平安時代末期に宇都宮氏が勃興するとその支配下に入り、たびたび久次良氏との勢力抗争の舞台となってきました。


 戦国時代には宇都宮国綱家臣の新田徳次郎により徳次郎城が築かれましたが、安土桃山時代に宇都宮氏が改易されると没落してしまいました。


 徳次郎の地名の由来には諸説あります。当初は『外久次良』とされていましたが、新田徳次郎昌言がこの地に徳次郎城を築いたことに因んで漢字を当てて『徳次郎』としたとの説が有力のようです。


 徳次郎宿は、上徳次郎宿、中徳次郎宿、下徳次郎宿の3宿から成る宿場町で、高札場は中徳次郎宿にありました。日光社参に3度訪れた朝鮮通信使は行きは江戸出発から4日目の昼食を徳次郎宿で摂るのが恒例となっていました。帰りは今市宿から徳次郎を通過して宇都宮宿で昼食を摂り、小山宿に泊まる強行軍が慣例でした。


 下徳次郎に入ると、桜や杉の並木が始まります。

 町名の読み方は1954年(昭和29年)の宇都宮市編入以来「とくじろうまち」でしたが、地元住民による市議会への請願を経て、2021年(令和3年)「とくじらまち」に変更されています。

 小学校前には、二宮金次郎(尊徳)の像が建っています。二宮金次郎は相模国(神奈川県西部)小田原出身ですが、1853年(嘉永6年)に農村復興事業(報徳仕法)を実施するために今市(現在の日光市)に赴任してきました。その縁もあり地元では崇拝されており、戦時中の供出や社会情勢の変化により(歩きスマホの悪癖の象徴にされてしまっているようです)、現在は全国的に少なくなってきた二宮金次郎の像がこの地域では結構残っています。 

 徳次郎には宿場らしき跡はあまり残っておらず、こうした碑があるのみです。

 修験者の外鯨要人(とくじらかなんど)が開いた私塾(寺子屋)明王院の跡。江戸末期から大正まで続きました。

 仮本陣だった金田家。現在は建て替えられており、当時の面影はありません。

 店舗・住居を兼ねる小日野屋(高橋家)の見せ蔵。明治初期創業の商家で、肥料や穀物など生業を扱い2008年(平成20年)まで営業していました。

 中徳次郎よりやや北にある智賀都(ちかず)神社。徳次郎のの鎮守で、社殿は1868年(明治21年)に改築されたもので、県の天然記念物に指定されている樹齢700年のケヤキがあるります。

 北端には、徳次郎六本杉がありますが、この杉だと思ったのですが違っていたようです。結局場所を見つけられませんでした。

 参考になったら、「プロフィール」のバナーをクリックお願いします。過去の記事リストがあります。シリーズ通してご覧いただければ嬉しいです。

×

非ログインユーザーとして返信する