あちこち旅日記

乗り物好きの旅行日記。コスパのよい贅沢な旅がモットー。飛行機、鉄道の搭乗乗車体験記やグルメ情報をご紹介します。

城下町長府の毛利邸:長州の旅・下関北九州編⑫最終回

 長府は江戸時代、長州藩の支藩である長府藩の城下町として賑わいました。現在でも当時の街並みがよく保存され、古民家を再生したカフェなどの料飲店が多く名を連ねます。


 こちらの昭和レトロもいいですね。


 長府毛利邸


 毛利家は鎌倉幕府の御家人大江輝元の子孫に当たります。長府藩の初代藩主の毛利秀元は、従兄で当主だった毛利輝元(秀吉の五大老の一人で120.5万石の石高を有していました)の養嗣子でしたが、輝元に嫡男が生まれると世嗣を辞退。一方で、病気の輝元に代わり秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)で右軍の総大将として活躍しました。1599年(慶長4年)に秀元は独立大名として別家創設が認められ、長門国と周防国吉敷郡合計18万石を分知されました。しかし、関ケ原の戦いで毛利輝元は西側総大将となっていたため、戦後輝元は大減封となり、秀元も分知された領土を没収されてしまいました。その後、秀元は輝元より改めて長門国豊浦郡と厚狭軍6万石を内分分知され、長府藩主となりました。

 

 長府毛利邸は長府藩最後の藩主であった毛利元敏が東京から帰任して建てた邸宅です。約1万㎡の敷地にあるこの邸宅は1903年(明治36年)から1919年(大正8年)まで長府毛利氏の本邸として利用されていました。その後、1948年(昭和23年)に長府毛利氏が東京に移るため、土地・邸宅を下関市に寄付。その後改装し1998年(平成10年)より一般公開され観光名所になっています。

子供部屋

奥様の間

ご当主の間


 「銀姫」毛利安子(1843~1925)。長府藩主も毛利元運の次女として生まれ、最後の長州藩主・毛利元徳の正室となりました。明治時代には華族として東京に移住した後に婦人教育や慈善活動に力を注ぎました。


 こちらは元運の長女鏻子の肖像画。この肖像画は鏻子が20歳の時のもので、長府藩家老細川義邵の養子周雀との婚礼に当たって作成されたものと伝わっています。

庭園


 茶室淵黙庵:島根県津和野町の堀家の敷地内にあった茶室を長府在住の原氏が1953年(昭和28年)の譲り受け、さらに2004年(平成16年)に原氏が下関市に寄贈し、移築されたものです。

参考になったら、「プロフィール」のバナーをクリックお願いします。過去の記事リストがあります。シリーズ通してご覧いただければ嬉しいです。

×

非ログインユーザーとして返信する