渡良瀬川をわたり足利学校に登校しました:北関東旅行記③
世良田の歴史遺産を見たあとは、世良田駅に戻り、次の目的地「足利市」に向かいます。JR両毛線に「足利駅」があり、区別するために「足利市」となっていますが、東武鉄道には「***市」と名前がつく駅が多いです。通常は「新・・・」とか「東武・・」とかが多いのですが、東武さんの趣味でしょうか。他にも川越市、佐野市とかありますが、醤油で有名な「野田市」は「野田」駅がないのに市がついています。大阪にある「野田」と区別するためでしょうか。それなら「東野田」「下総野田」「東武野田」とかにすればよいのに・・・と思うのですが。
世良田の駅には改札口がなく、伊勢崎線もワンマン運転です。PASMO利用ならタッチし、そうでなければ乗車証明を発券する仕組みです。
列車が時間通りに入ってきました。
足利市に到着です。
駅前には渡良瀬川の見える公園があります。
駅のホームからもよく見渡せます。
渡良瀬川は、足尾の山々に水源をもち、桐生、足利、佐野を流れ、利根川に合流します。かつては水上交通が盛んに行われており、経済的にも深く関わっていました。
足利市は、渡良瀬川によって南北に分かれており、12本の橋で南北の連絡をしています。この橋が中橋で、一つ上流側にある橋が渡良瀬橋です。沈む夕日を背景とした渡良瀬川とトラス橋のシルエットという美しい風景は、森高千里さんの『渡良瀬橋』に歌われ大ヒットしました。
渡良瀬川といえば、19世紀後半の明治時代初期に起きた足尾銅山鉱毒事件が有名です。1973年(昭和48年)までに足尾の銅は掘りつくされ、1989年(平成元年)にJR足尾線で貨物列車が廃止になると、原料鉱石の輸送量が減少し、水質は大きく改善したとされます。その後1993年の『渡良瀬橋』のヒットは川のイメージ改善に大きく役立ったようです。
川を渡ってこの日向かったのは、平安時代初期(もしくは鎌倉時代)に創設されたと伝えられる足利学校です。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府でした。創設年、創設者については諸説ありますが1868年(慶応4年/明治元年)まで存続していました。1990年(平成2年)に建物と庭園の復元が完了し、江戸時代中期の様子が再現されています。
最盛期の16世紀には学生数は3000人と記録されています。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えらていました。
跡地の入口には石碑が立っています。
正門前には、立派な蔵が残っているお宅がありました。
入場の際に、「入学許可証」をいただきました。学生証のワッペンもいただきましたが、
学生証のワッペンもいただきましたが、うっかり洗濯してしまいました。足利市観光協会のホームページより拝借しました。
(出所)足利市観光協会
入口には、「学問の神様」足利学校稲荷社があります。
学校門と
杏壇門を通ると、
孔子廟があります。
832年に「足利学校」を創立したと伝えられる小野篁の坐像と
孔子坐像があります。
庭園を通ると、
校舎があります。
中には、孔子像など展示物があります。
上杉憲実の像。足利学校は室町時代の前期には衰退していましたが、1432年(永享4年)に関東管領の上杉憲実が足利の領主になり、その後再興に尽力しました。
中庭の庭園もきれいです。
裏門。通用門として使われていたようです。
上杉憲実を称える石碑が裏門横に立っています。
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