徳川氏発祥の地「世良田」:北関東旅行記②
前回,、東武伊勢崎線の無人駅「世良田(せらだ)」に到着したところまでを報告しました。
この世良田駅の横・線路際に「徳川氏発祥の地」とある標柱が立っています。
1566年に三河の国を平定した家康は、その立場の正当性を確保するために叙位・任官を朝廷に願い出ましたが、叙位・任官のためには源氏の嫡流であることが必要でした。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる源義家の孫の義重が上野国新田荘(現群馬県)を治めるようになり、新田義重と名乗っていました。義重の死後、その領地の内、徳川郷・世良田郷・他4郷を義重の子である義季が受け継ぎ、徳川(得川)義季・世良田義季と称したのが徳川氏の始まりとされています。
義季より9代目の親氏は足利氏の討伐により先祖の地を追われ、諸国を流浪または転戦の後、松平信重の娘を娶った縁により松平郷(現在の愛知県)に土着、松平親氏と名乗りました。家康はその松平親氏から9代目に当たり、25歳の時、祖父清康が新田源氏徳川氏庶流世良田姓を称していることを知り、自らの出自にあやかり松平姓から徳川姓を名乗るようになりました。
家康からの申請を受けた朝廷は、出自を示す明確な証拠がなかったため改姓許可はをなかなか出しませんでしたが、1566年の末には徳川姓が朝廷から認められ、従五位下三河守に叙任されました。
世良田の駅前は寂しく、ほかに何もありません。
観光案内図を頼りに歩いていきます。
まずは、長楽寺です。1221年(承久3年)に新田義季が開山し、室町時代初期(南北朝時代)には室町幕府から関東十刹のひとつに列せられていました。室町時代から江戸時代までは新田家および足利家(鎌倉公方)の帰依を得、臨済宗関東十刹中でも大寺院でした。
その後、徳川家の帰依を得、江戸時代江戸幕府に起用された天海僧正により天台宗に改宗されました。
総門
庭園が見事です。
太鼓門(群馬県指定重要文化財)。時報や行事の合図のため、楼上に太鼓を置いていたことからこの名があるそうですが、現在、太鼓はありません。
三仏堂(群馬県指定重要文化財)。1221年(承久3年)、新田(徳川)義季の建立と伝えられていますが、その後、1651年(慶安4年)に三代将軍家光によりて再造されたと伝わっています。現在の建物は、1985年(昭和60年)に改修されたもので、間口13.8m、奥行き10mで、中に三体の仏像が並んでいます。
1877年(明治10年)の西南戦争から太平洋戦争まで245名余りの英霊が祀られている忠霊塔。
この長楽寺に隣接して世良田東照宮があります。天海大僧正が3代将軍・徳川家光に要請し、世良田の長楽寺境内に日光東照宮奥社(元和年間に造営の多宝塔、唐門、拝殿)を移築して1644年に創建したものです。
1875年(明治8年)、神仏分離によって長楽寺から分離し、1879年(明治12年)に郷社に格付けされました。
御黒門(縁結び門):地覆長押をまたいで参拝すると良縁が成就すると伝えられています。
入母屋造の拝殿と唐門は国の重要文化財に指定されています。
社務所と宝物館。
境内社である開運稲荷社:商売繁盛のおいなりさま。 1996年(平成8年)に再建されたものです。
駅からの途中に、東照宮より歴史が古いと言われる八坂神社があります。上野国新田祇園牛頭天王縁起によると、876年に『上野新田のほとりに社を作らば静まるべしと、当所に鎮め奉る』との記録があります。
マイカーご利用の方は、国道69、14、142号線の交差するあたりが目印になります。
これからの季節はイベント・お祭りが目白押し。7月16日にはおおた夏まつり、
7月22日には世良田祇園まつり、
8月14日~15日には尾島ねぷたまつりがい開催されます。
大河ドラマになると、主な舞台となった地・ゆかりの地には多くの観光客が押し寄せますが、ここはまだあまり有名になっていない穴場のようです。
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