佐倉城址と5代目藩主堀田正睦が残した功績
城下町佐倉の武家屋敷を見た後は、佐倉城址に行ってみました。
大手門跡ですが、今は何も残っていません。
佐倉藩の藩校だった「佐倉藩学問所」跡の碑です。
この「佐倉藩学問所」をもとに設立されたのが千葉県立佐倉高校です。佐倉高校は中心街よりやや東寄りにあります。卒業生にはあのミスタージャイアンツこと長嶋茂雄さんが、元教員では陸上長距離界の名伯楽・故小出義男さんがいらっしゃいます。
旧校舎が保存されています。
「佐倉藩学問所」は1792年(寛政4年)に設立。日本を開国に導いた江戸幕府老中首座でもあった第5代藩主・堀田正睦をはじめ歴代の佐倉藩主は人材の育成のため、学問および武芸を奨励しました。
城址には堀田正睦の像と、正睦が交渉に当たったタウンゼント・ハリスの像があります。
正岡子規の句碑があります。
佐倉城は徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城されました。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く(土井利勝も後に大老につきました)、初期には城主の入れ替わりが頻繁に行われました。江戸初期に城主であった堀田正信は後に改易されてしまいましたが、正信の弟・堀田正俊の孫に当たる堀田正亮が11万石で再入封してからは安定しました。正亮以後の堀田氏は「後期堀田氏」と呼ばれることがあります。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としていました。明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去されており、当時の様子を見ることができません。こうした中、空堀はよく保存・復元されています。
モッコクの樹。幹には「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫り込まれています。戦時中、この地に陸軍の佐倉連隊があったことから、出陣前の兵士が彫り込んだものと思われます。
国立佐倉病院の碑。1874年(明治7年) 東京鎮台佐倉営所病院として創設され、1888年(明治21年) 佐倉衛戍病院、1936年(昭和11年) 佐倉陸軍病院となりました。第二次世界大戦後、陸軍の解体により厚生省へ移管、国立佐倉病院を経て、2004年3月1日に国立療養所千葉東病院と統合し、移転しています。
椎木門跡の碑と、馬出し空堀。
奥に見える建物は、国立歴史民俗博物館(通称:れきはく、歴博)。日本の歴史、民俗学、考古学を総合的に研究・展示する歴史博物館。国立の研究機関かつ教育機関で、人間文化研究機構が運営しています。この日は時間がなく、入ることができませんした。
北からの入口から少し上った右側、連隊時代の衛兵所跡の一角に、大分県臼杵市の「古園石仏大日如来像」が実物大で再現されています。
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