奥の細道はここから始まった「矢立初めの地」:東京観光の穴場・北千住①
先週から、北関東の旅を報告してきましたが、都内の発着は東武東上線・北千住でした。
その北千住ですが、リクルートが、首都圏で実施している「SUUMO住みたい街ランキング」で「穴場だと思う街(駅)ランキング」2022年まで5年連続で1位となっています。ちなみに、2位は以前にも紹介した東武東上線・東京メトロ有楽町線和光市です。北千住は住むだけでなく、観光やアフター5、休日さんぽにも穴場といえる名所がいろいろ集まった街です。
北千住は、JR常磐線のほか、つくばエクスプレス、東京メトロ千代田線、同日比谷線、東武伊勢崎線(スカイツリーライン)といった多くの路線が発着し、巨大な駅ビルが街のシンボルとなっています。
また、江戸時代にも日光街道および奥州街道の日本橋から1番目の宿場町として栄え、水戸街道への分岐点にもなっていました。当時は、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれていました。最盛期の人口は約1万人で、55軒の旅籠が約150人の飯盛女(遊女)を抱え、江戸四宿の中でも最大規模でした。
また、松尾芭蕉「奥の細道」600里の旅の始まりの句「行春や鳥啼魚の目は泪」を詠んだ「矢立初めの地」でもありました。「矢立初め」というのは、この地でこの句を詠むために携帯用の筆記具「矢立」を使い始め、旅が始まったということを意味しています。
松尾芭蕉は1689年(元禄2年)年3月に弟子の曾良を伴って深川(江東区)から船で遡上してこの地に降り立ち、陸奥へと旅立ちました。
この「矢立初めの地」は京成線千住大橋近くにあります。この日は、千住大橋から散歩してみました。
千住大橋の駅から国道4号線(現在の日光街道)を南に行くと、現在の千住大橋があります。旧橋(下り)と新橋(上り)の二橋がおり、旧橋の上流側に東京都水道局の工業用水道専用橋である千住水管橋がほぼ並行しています。
最初に千住大橋が架橋されたのは、1594年(文禄3年)でした。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋があったと考えられます。
千住大橋はその後、何度も改架、改修が行われており、現在の鉄橋は関東大震災後の震災復興事業の一環として、1927年(昭和2年)に作られています。1973年(昭和48年)には交通量増大のために新橋が作られました。
千住大橋のたもとの千住大橋公園には、有名な「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の歌碑があります。
ちなみに『奥の細道』の冒頭に、「月日は百代の過客(ひゃくだいのかかく)にして、行かふ年も又旅人也。・・・」の文言があります。私のハンドルネームはここからいただいております。
隅田川沿いには堤防テラスがあります。芭蕉はこの地(もしくはやや上流の渡船場?)に降り立ったようです。
この地は奥州街道や日光街道を利用した大名も使っていたようです。千住大橋の東側に「お上り場」の記念碑があります。
2004年(平成16年)に作られた「千住小橋」。全長約31mの歩行者専用の橋で以前は橋により堤防テラスが東西で分断されていましたが、これにより東西の通過が可能になりました。
国道4号線を北に戻ります。足立市場付近で現日光街道と旧日光街道が分岐します。
旧日光街道の入口に松尾芭蕉の像が立っています。
銅像の横に「鮎の子の白魚送る別れ哉」との句碑が立っています。有名な「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句以前に同一の作句動機で作られましたが、採用されなかったようです。
白魚は、旧暦2月頃に産卵のために川を上り。鮎は、その1ヶ月ぐらい後に遡上すると言われています。芭蕉と曾良を白魚に、千住まで見送りに来た門弟達を鮎に見立てた歌ですが、この句からは、別れの慟哭といったものは伝わってこないため、「行く春や・・・」の句に比較して劣ると芭蕉は考えたとみられています。
「街薄暑 奥の細道 ここよりす」という句碑もあります。
長くなってしまったので、今回はここまでとさせていただき、千住宿や日光街道、現代の穴場については改めて報告させていただくことにします。
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