あちこち旅日記

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将棋界の伝説「陣屋事件」と陣屋の太鼓の秘密

 前回鶴巻温泉の紹介をしましたが、今回は1952年に温泉旅館「陣屋」で起きた将棋界を揺るがせた事件の話です。





 陣屋旅館は将棋のタイトル戦が数多く行われている場所としても有名です。1926年(大正15年)に将棋の関根金次郎十三世名人が対局場として陣屋を指名して以来、300回を越えると言われています。そのタイトル戦の中には、戦後の将棋界で一大事件となった「陣屋事件」と呼ばれる大騒動がありました。


 この事件の主人公となったのは、名人にもなったことのある升田幸三八段(当時)です。


 「陣屋事件」とは1952年(昭和27年)2月18・19日に対局予定だった第1期王将戦第6局で、升田がタイトルホルダーだった木村義雄名人(当時)との対局を拒否した事件です。


 事件の背景には、王将戦の主催者である毎日新聞への升田の強い不満があったと言われています。


 第一には、王将戦のルールに対する不満でした。第1期から第8期までは毎日名人戦を主催していた毎日新聞社は、1949年(昭和24年)に契約条件を巡って日本将棋連盟と決裂し、名人戦の主催者が第9期から朝日新聞社に移ることになりました。


 毎日新聞社は、新たな主催棋戦として「王将戦」を創設したいと日本将棋連盟に申し入れ、1950年に創設された初代王将のタイトルは木村が獲得していました。


 「陣屋事件」が起きたのは正式にタイトル戦となった翌1951年度の第一期七番勝負でした。今では、七番勝負はどちらかが先に4勝した時点でタイトル移動・終了となりますが、当時の王将戦では一方が三番勝ち越した時点で王将のタイトルが移動すると同時に「指し込み」が成立して、手合割が平手から「平香交じり(平手局・香落ち局を交互に行う)」に変わる「三番手直りの指し込み制度」導入されていました。つまり、7番対局まで「消化対局」が行われていたわけです。


 古くから「指し込み制度」は存在していましたが、一方が四番勝ち越した時に手合割が変わる「四番手直り」が常識でした。しかし、王将戦では異例の「三番手直り」が採用されていました。1950年の七番勝負は、同年12月から1951年(昭和26年)2月に行われ、木村名人が丸田祐三・八段を5勝2敗で下しタイトルを獲得しましたが、この時は7番対局まで行われたため、「平香交じり」対局は行われていませんでした。


 升田は、王将戦では「三番手直りの指し込み制度」が採用されることを知り、強く反対していたそうです。升田自身、かつて香落ちで名人に勝つことを夢見ていたことで知られていますが(広島出身の升田が家を出る時に書き残した言葉として伝えられています)、この時は「王将戦のねらいは、名人の権威を失墜させることにある」と考えたようです。升田は戦後朝日新聞社の嘱託(注)をしていたこともあり、これも毎日新聞への不満の伏線にあったのかもしれません。


(注)升田が嘱託を務めていた朝日新聞社経由で、GHQから「将棋の話を聞きたい」と呼び出されたことがありました。升田が出頭し数名の将官が面談した際にGHQから「チェスと違い、将棋では取った駒を自分の持ち駒として使う。これは捕虜虐待である」の旨を言われたところ、「チェスでは取った駒を使わないが、これは捕虜虐殺である。将棋では、捕虜(取った駒)を、官位(角なら角、金なら金)はもとのまま、能力(駒の働き)を尊重して、味方として登用する。これこそ真の民主主義である」と反論したとのエピソードが残っています。


 第二には対局前日に陣屋旅館を訪れた升田に対する旅館と毎日新聞社の対応がありました。事前に升田が毎日新聞社に問い合わせると、「陣屋」は小田急線の鶴巻駅(現:鶴巻温泉駅)から歩いてすぐなので同行者は出さない、と告げられたそうです。升田は、1948年(昭和23年)2~ 3月に和歌山県・高野山で行われた第7期名人戦挑戦者決定戦で、当時の名人戦主催社であった毎日新聞社から数々の冷遇を受け不満を持っていたようです。とりわけ真冬の高野山に行くのに毎日新聞社が同行者を出さなかったために苦しんだ経験がありました。


 実際に「駅前」とはいいながらも「陣屋」までの道は地図にあるように少し入り組んでいます。当時は今と違い建物が少なかったことから駅からも見えていたのかもしれませんが、広島出身で当時関西在住の升田が地理不案内であったことは想像に難くありません(その後1955年に升田は東京に転居しています)。


(出所)秦野市観光協会


 升田は小田急線に一人で乗り、鶴巻駅から徒歩で「陣屋」に着き玄関のベルを押しましたが迎えの者が出て来なかったそうです。奥で宴会をやっている様子で、玄関に立つ升田の前を女中が忙しく行き来するが升田には目もくれず、通りかかった番頭が奥に声をかけても、升田が何度ベルを押しても誰も出て来なかったようです。


 升田の風貌は写真に示したように、今日の棋士のイメージとは程遠く、ボサボサ頭にヒゲ面、復員服(階級章を外した古軍服)のような粗末な服を常に着ているなど、面識のない者から怪しまれても仕方ない風体だったようです。升田が経済的に貧窮していた訳ではなく、升田なりの反骨精神で敢えて「汚い風体」をしていたようですが、「陣屋事件」の時以外にも、対局場となった旅館で不審者扱いされ、トラブルになった例があったと言われています。


(出所)日本将棋連盟棋士データベース


 その後升田は、鶴巻温泉の別の旅館「光鶴園」に入って酒を頼み飲みながら、このまま「光鶴園」に泊まって、対局場の「陣屋」には翌日行って対局すれば良いと考えていたようです。しかし、升田が「光鶴園」から「陣屋」に電話したところ、主催社である毎日新聞の記者が出て事情を話すうちに怒りが復活。「陣屋」に居合わせた先輩棋士や毎日新聞の記者などの関係者が「光鶴園」に足を運び、升田をなだめようとしましたが、升田の怒りは収まることがありませんでした。


 升田は対局場所を変更するように要求しましたが、聞き入れられず、第1期王将戦第6局は対局中止となってしまいます。その後、第6局升田の不戦敗となり升田は1年間の出場停止処分となってしまいました。その後、升田に同情的な世論を受けて、木村名人の裁定で連盟は処分を撤回。升田も陣屋の主人とも和解しています。「陣屋事件」が起きた第6局は改めて升田の不戦敗となり、第7局(手合割は平手)は升田が勝ち、第1期王将戦は升田の5勝2敗で終了。升田がタイトルを獲得しました。


 「陣屋」では、この事件を契機として玄関前に陣太鼓を置き、客を迎える際に打ち鳴らす慣行にしています。


 升田は1991年に73歳の生涯を閉じましたが、今日でも将棋界でその功績はたたえられており、慕う後輩棋士は少なくありません。弟子には株主優待生活で有名な桐谷広人七段(2007年引退)がいます。


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