あちこち旅日記

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江戸4宿の一つ内藤新宿

 江戸時代、江戸には4つの宿場町がありました。品川(東海道)、板橋(中山道、川越街道)、千住(奥州街道、日光街道、水戸街道)と今回紹介する内藤新宿(甲州街道、青梅街道)です。このうち、板橋、千住については以前紹介しています。







 内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、甲州街道で江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもありました。現在の地名では、東京都新宿区新宿一~三丁目の一帯になります。


 新宿区立歴史資料館に、内藤新宿のジオラマがあります。ここは次回紹介します。


 


 東の端は四谷大木戸です。以前、四谷三丁目について報告した際に言及しています。



 四谷大木戸跡

 
 西の端は現在の新宿三丁目交差点(新宿追分)を越えたあたり(伊勢丹デパートの先あたり)になります。新宿追分には交番があり、目印になっています。

 東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿は、いずれも日本橋から約2里の距離にありましたが、五街道の内で甲州街道のみが江戸近郊に宿場を持たず、日本橋 - 高井戸宿間での公用通行に対して人馬の提供を行う必要があったことから日本橋伝馬町と高井戸宿の負担が大きかったとされます。


 このため、1697年(元禄10年)に、幕府に対し高松喜兵衛など5名の浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出たところ、翌1698年(元禄11年)、幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可しました。日本橋から2里弱の距離で、青梅街道との分岐点付近に宿場が設けられることとなり、1699年(元禄12年)に 元禄12年(1699年)に内藤新宿が開設されました。宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来し、信濃国高遠藩・内藤家中屋敷の一部や旗本の屋敷などを幕府に返上させて宿場用地としました。


 宿場開設に尽力した高松喜兵衛は、喜六と名を改め内藤新宿の名主となり、以後高松家当主は代々喜六を名乗り名主を務めました。開設当初はこの高松家が本陣を経営していましたが、のちに本陣が存在しない時期もあるなど、本陣や脇本陣は一定していなかった模様です。


 宿場内では次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所(色町)としても賑わっていきました。しかし、吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象にもなり、1718年)、内藤新宿は幕府によって廃止されてしまいました。当時は享保の改革の真っ最中で、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたと考えられています。


 その後、たびたび幕府に対して内藤新宿の再開願が出されていたものの、却下が続いてきました。しかし、1772年(明和9年)に再開されました。これまで却下され続けた再開が認められた背景には、品川宿・板橋宿・千住宿の財政が悪化する一方で、各街道で公用の通行量が増加し、宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となっていたためと考えられています。また、10代将軍・徳川家治の治世に移り、消費拡大政策を推進する田沼意次が幕府内で実権を握りつつあったことも背景にあったとも考えられています。幕府は宿場の窮乏に対し、風紀面での規制緩和で対応したわけです。


 明治時代になると、廃藩置県と宿駅制度の廃止に伴い、江戸にいた多くの武士、続いて商人らが国元へ戻ったため、100万都市と言われていたかつての江戸の人口は半分近くまでに減ってしまいました。内藤新宿も同様に、街道沿いの一部を除き荒涼とした土地と化していってしまいました。残っていた旅籠の多くは飯盛女(遊女)を抱え、町は遊里の性格を帯びていきました。これら旅籠は1873年(明治6年)年に「貸座敷渡世規則」が施行されると「貸座敷」と名前を変え、一帯は吉原や品川と並んで東京府公認の遊郭となって賑わうようになっていきました。


 ちなみに貸座敷は1918年(大正7年)年に警視庁より現在の新宿二丁目に当たる牛屋の原へ移るように命じられ移転していきました。芥川龍之介の父が経営していた牧場『耕牧舎(こうぼくしゃ)』もこの付近にありました。現在の新宿二丁目は。マンション、雑居ビル、オフィスビルなどが立ち並びますが、一歩裏にっ入ると、世界屈指のゲイ・タウン・LGBTタウンとなっています。こうした内藤新宿からの歴史が反映していると考えられます。


 仲町のすぐ北、内藤新宿の中央付近にある大宗寺の周囲に門前町も形成されていました。江戸六地蔵の第三番、都内最大の閻魔大王像、「しょうづかの婆さん」と呼ばれ飯盛女たちの信仰を集めた奪衣婆像など、多くの文化財が現存しています。近くに住んでいた夏目漱石が子供の頃、地蔵に登って遊んでいたという逸話も残ります。


 今ではペット納骨堂もあります。

 太宗寺の北、靖国通りに面して立つ成覚寺は内藤新宿の飯盛女の投げ込み寺でした。1594年(文禄3年)に創建されたと伝わります。共葬墓地に葬られた飯盛女たちを弔う「子供合埋碑」や、心中した男女らを供養するための旭地蔵など、内藤新宿繁栄の裏面を伝える文化財が残っています。

 成覚寺と隣接する正受院には「綿のおばば」と呼ばれた奪衣婆像があります。1848年(嘉永元年)の年末から翌年にかけて評判となり、江戸中から内藤新宿へ参詣客が押し寄せる騒ぎとなりました。この奪衣婆像を題材にして多数の錦絵が描かれています。

 上町(新宿3丁目)の北にある花園神社は新宿総鎮守でした。江戸時代には「三光院稲荷」と呼ばれ信仰を集め、境内に設けた芝居小屋で行なわれた歌舞伎・義太夫などの「三光院芝居」は評判を呼んでいました。


 この日は骨董市が開催され、外国人観光客も多数来ていました。


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